空の色を望む
縦横変換 名を呼ばれたような気がする。きっと、気のせいに違いないけれど。
仰いだ空は変わらずどんよりとした鈍色で、薄っすらと現世の謎めいた塔の群れが透けて見えた。昏い空を通して窺う景色は全てが薄墨色の帷の向こう、本来の輝きを失い何色をしているのかも判らない。
轟音と共に稲光が視界を遮ったので、仕方なく目を伏せ、荒れた大地の欠片が剥がれていく衝撃を足裏で踏み締めた。
この隠り世に封じられ、一体どれほどの歳月を経たのか、数えることはとうの昔に諦めている。何せ空は永劫に厚い雲に覆われており、その向こうに見える現世が昼間なのか夜を迎えているのかすら判別がつかなかった。更に加えて向こう側をあまりにも長時間観察していると、警告が下るのだ。ちょうど、先程の雷のように。
錆色の大地、鈍色の空。死の気配ばかり濃密で、生命の鮮やかさに欠けるこの景色は、もう見飽きた。けれども、悲しいかな。元の世界が、どのような色をしていたのか。あまりにも記憶に遠すぎて、最早思い出すことも叶わないのだ。
◆・◆・◆
かつては、空には太陽というものがあり、世の中を広く明るく照らしていたらしい。
遠い遠い過去の話だ。人類はとっくに地球を飛び出して、宇宙に作ったコロニーで暮らしている。天変地異が多発し、飛び出すしかなかったともいう。今の地球がどんな状態であるのか、それはごく一部の知識人しか知らない、最重要極秘事項の一つとも言われている。
正直、今の地球に興味があるわけではない。けれども、人類の辿ってきた歴史や、かつての神話、物語を読むのはとても興味深かった。そうすると、自然とそこに記された大空と天体の話を目にすることになり、淡青の昼空、白い雲、赤い夕焼け、どのようなものだったのかと、気づけば夢想に耽る日々。
「あんまり空のことを思っちゃダメよ。深淵の主に、連れ去られたらどうするの」
母や幼馴染には窘められるけれど、別に連れ去られても困るのはあの人たちであって、僕ではないと思うのだ。
「どこに連れ去られるんだろうね」
屁理屈を捏ねて! と怒られた。あの人たちの考えは、僕には解らない。そしてきっと、僕の憧れも、あの人たちには理解できない代物なんだろう。
それにしても、深淵の主か。過ぎた願いを望む子どもを拐うとか、言われているけれど。僕が先程指摘したように、どこに連れ去るかははっきりしていないのだ。
調べれば、何かの伝承に行きあたるだろうか。
思わぬ気付きと収穫に弛みそうになる頬を我慢したら、逆に少し引き攣ってしまった。全ての想いや感情が、体に表れることなく頭の中で完結できたなら、僕はもう少し、楽に生きることができたのかもしれない。
「また不気味な顔して! 全然反省してないでしょ」
ほら、あの人たちが不思議なことを言う。それでも僕が生きていけるのは、子どもを虐待すると罰金が課せられることと、僕が行う翻訳業であの人たちが稼いでいることが主な理由だ。
宇宙まで飛び出しておいて、人類は未だ統一言語を手にできていない。コロニーの中は概ね同じ言語が通じても、他のコロニーではまた別の言語が主流だったりする。機械翻訳でも細かなニュアンスを訳しきれないことがあって、その隙間を埋めるのが僕の仕事だった。
バベルの塔、なんて神話があったなとふと思う。天にも届く塔を建てようとして神の怒りに触れ、統一言語を失う人類の話。空を突き破って大地すら捨て、宇宙に上がった僕たちを、その神様とやらはどう思っているのだろう。
◆・◆・◆
ゆらり、揺らぐ空は、私の仲間がまた一柱、力尽きた証。信仰が薄れれば、神性も薄れていく。各々、離れた場所に封じられているが故に、声を交わすこともめっきり減ってしまった。力を失うほどに、声を届けることすらも負担となっていったのだ。
そんな我々の最期の趣味が、子育てである。彼女の名を、『深淵の主』という。ここが隠り世と化した瞬間に生まれ落ちた、烏の濡れ羽色の髪と瞳に薄桜色の肌を持つ鬼子。ひたすら現世に興味を示し、我等の目を盗んでは人を拐うまでに成長した、隠り世唯一の成長株だ。
得られる信仰が、善きものばかりとは限らない。恐らく彼女は悪しき信仰を一身に受けている、それが我々の見解だった。鬼子と称するのも、その表れだ。
一方で我々は、暇を持て余していた。
それでなくても、薄れいく信仰を肌に感じ、消失の時を待つばかりの身だったのだ。我々は人間に生み出されたが故に、人間のような考え方を多少なりとも持ち、消え去る恐怖と戦わねばならなかった。
誰かが、己を構成する物語を、『深淵の主』に教えた。その噂はあっという間に隠り世を駆け巡り、限界を感じた者から順に彼女を呼び、寝物語に神話を語った。
先程、空が揺らいだということは、また誰かが語るのを終えて、彼女に看取られたということでもある。ひたすら看取りを行わせて、酷なことをしているとは思う。けれど理不尽な状況下で逝くことへの心残りが、仮に何かしらのきっかけで祟りに化ける可能性を考えると、互いに止めるとはできなかった。
「ただいま、九十九」
噂をすれば影がさすと言うが、まさにその通り。腰まで届く射干玉の黒髪を靡かせ、『深淵の主』が現れた。
「お帰り、ヌシ。今回は誰も拐ってはいないだろうね?」
彼女の視線が不自然に泳いだので、睨みつける。そう、空が揺らぐ瞬間は、現世に手が届きやすいのだ。その隙をついて人を拐うのが彼女の十八番だから、注意しなければならない。
「ヌシ?」
「今回はヌシだけのせいじゃないもん!」
このことに関する彼女からの口答えがいつもとは異なり、いっそう自分の眉間に皺が寄ったのを感じた。
「一回は止めたよ、隠り世は人間が生きていける場所じゃないって。でも、この子、ここの現状聞いてもついてくるって言うし、現世からも弾かれそうになってたから、もう拾わないともったいなくて」
彼女の背に隠れていた涅色の髪、象牙色の肌の少年が、私の方に押し出される。急な動きに二、三歩よろけた彼がおずおずと私を見上げ、その瞳の色があらわになった。
……淡青色だ。今にも育ちそうな若葉の色。この荒れた大地にこそ、勿体無い。
少年の内に見え隠れする、膨大な量の知識、膨大な量の神話や伝承たち。それこそ『深淵の主』と張り合えそうな。
「九十九、どうしたの⁉︎」
気付けば、涙が溢れていた。我々のことを知ろうとしてくれている人間が、まだ存在していた。とても嬉しい反面、とても申し訳がない。そのような貴重な人間を、『深淵の主』は拐ってきてしまったのか。いや、現世が要らぬ者と判断したのか。
◆・◆・◆
昔々の、確か日本とかいう極東の島国の、更に古代風の衣装を着た女の人が、静かに涙を流して、僕を見ていた。僕と同じような薄いクリーム色の肌に、宇宙を連想させる黒い髪と目をした女性だ。何枚も重ねられた服の一番上の色は深い青紫色で、そのすぐ下に僕の目と同じ、淡い緑の色に染まった布が見えた。
「すみません、取り乱しました」
たっぷりとした袖口で目元を押さえながら、彼女は言う。
「隠り世へようこそいらっしゃいまし、神話を集めし尊きお方。散々に荒れた場所ではございますが、私は貴方様を歓迎いたします」
「九十九が畏まってるー。珍しい!」
僕をここに連れてきた深淵の主が、頭を下げた女の人を、ツクモと呼んでからかった。深淵の主も真っ黒な髪と目をしているお姉さんなのだけれど、肌の色だけは僕たちよりずっと色白でピンクがかっている。更に、彼女の着ているドレスの色がまた真っ黒なものだから、余計に肌の白さが際立っていた。
「して、貴方様は、何故に此処に?」
女の人に問われ、僕は答える。
「空に色を取り戻して、この目で見るために」
端的にわかりやすく答えたつもりだったのに、女の人がとても混乱した顔をしたので、結局は長く経緯を説明する羽目になった。僕が神話などを読むのが好きで、そこから空に憧れていたこと、そして深淵の主との出会いまで。
◆・◆・◆
深淵の主はずっと自分のことを深淵の主だと言っていたけれど、正直なところ、僕は彼女のことを、資料庫の精霊なんだと思っていた。僕が資料庫にこもって調べ物をしていると何処からともなく現れて、背後から僕の読んでいる本を覗き見してくるのだ。なにせ資料庫は私語厳禁だから、なかなか言葉は交わせなかったけれど、彼女はまるで僕の思考を読んでいるかのように、探し物で困った時は求めていた本を持ってくるなどの気遣いを見せてくれた。
だから、うっかり考えてしまったのだ。もしもこの精霊のようなお姉さんが本当に深淵の主であるのならば、僕を拐ってくれないかな、なんて。
その瞬間にお姉さんが、とても悲しそうな顔をして首を横に振ったから、僕の中でお姉さんは人を拐えない存在、すなわち深淵の主ではなく資料庫の精霊になった。なっていたのに。
僕が十五歳の誕生日を迎える前夜、深淵の主は現れた。資料庫ではなく、僕の部屋に。
「ヌシ、気づいたんだー。ここなら、おしゃべりしても、おこられないって。ぼうや、明日で成人だね」
吸い込まれそうに真っ黒な目に映っているのは、呆気に取られた顔の僕。
深淵の主の黒いドレスは明かりを消した部屋の暗がりに馴染みすぎて、ニコニコと笑う真っ白な顔だけが、浮かび上がって見える。
「ヌシはここの大人と会えないから、ぼうやと会えるのも今夜が最後。だからね、ありがとう、さようならって言うだけのつもりだったんだけど」
ガツンと頭を殴られたかのような衝撃。愕然とする僕に、彼女は悪魔の囁きをした。
「ぼうや、何か願い事を言ってみなよ。あんまり大それた願い事なんか抱えてたら、深淵の主が拐っちゃうよ?」
「拐ってくれるんだ? ……僕の願い事次第で」
本当に、連れ去ってくれるとしたら。僕は連れ去られる先を、知ることができるのか。
「そうかもしれないなーって思ってたけど、ぼうや、怖さよりも興味が勝つんだね」
「何も怖いことなんてないよ?」
反射的に答えていた。だって、こんなにも優しい深淵の主が連れ去る先が、怖い訳がない。
「でも、そうだな。連れて行ってくれた先に、空があれば良いな。明るすぎるっていう太陽、淡青の昼空、白い雲、赤い夕焼け。それら全部、この目で見てみたいんだ」
深淵の主は、なんとも言えない表情をした。
「ごめんね、ぼうや。流石にその願いは、大それすぎだとヌシ思う。だって、隠り世は……」
そうして語られた、かつて地球と呼ばれていた隠り世の現状。包み隠さず教えてくれるあたり、本当に深淵の主は優しいと思う。
残念ながら彼女の意図に反して、僕の望みが更に大胆なものになっただけだったけれど。
「でも、空は残ってるんだよね。連れて行ってよ。空に、色を取り戻すのが、今の僕の願い事だ。生の神話が聞けて、空と大地があるなんて、すごいことじゃないか」
◆・◆・◆
少年の語ってくれた経緯は、とても壮大な物語の序章にしか聞こえなかった。
「それで、此処へいらしたのですか」
確認を取る私の声は、みっともなく震えていた。それに気付かぬはずはなかろうに、彼はあっさりと肯いた。
「ほら、ヌシだけのせいじゃなかったでしょ⁉︎」
隣で『深淵の主』が胸を張った。なるほど彼女の言ったことは正しかった。寧ろ、全てを知ってもなお、空を願う大それた少年が『深淵の主』を巻き込んだように聞こえる。
「なるほど、その言い分は認めましょう。でもヌシは何故、この方を私の元に連れてきたのかな?」
「えっ、だって、生活道具、要るじゃん? 誰かに作ってもらおうにも、材料集めるの大変だし」
壮大な話が一気に日常めいたものになって、思わず目を瞬いてしまった。ああそうか。生活道具が、必要か。
「出してくれるよね? 九十九」
私が協力することを微塵も疑わない、晴れやかな笑顔の『深淵の主』と、興味深そうに私を見てくださる尊きお方。
「ええ、わかりました」
私は袖を振った。背後に、私の依代たちが山を成す。
我が呼び名は九十九。そう、私もまた消え去る時を感じ、『深淵の主』に自己語りをしていたモノ。
神話を知る尊き少年が、私の真の名を呼んだ。
「付喪神……」
「私を捧げましょう。だからきっと、空に色を取り戻してくださいね?」