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丁寧な先生(神代望視点)

 聞き慣れない、妙に押し殺された足音が、俺の病室の前で止まったのが聞こえた。他にすることがないもんだから、聞き分けられるようにもなる。コンコン、とノックするリズムもまた、初めてのパターン。だから、これから入ってくる誰かは、きっと俺の会ったことのない人だ。
 病室の引き戸が開く音は普段よりも静かで、丁寧に扱われれば扉もこんなに静かになるのかと、ちょっと感心してしまった。
「入りますね、神代さん」
 耳に心地良い音だと、思った。柔らかくて、ゆっくりで、丁寧で。そして、部屋に入る前からこんなに気遣われたのは久々だな、とも。
 いや、看護師さんたちに文句を言いたいわけじゃない。あの人たちは多分すごく、忙しくて。だからこんな風に遠慮してる余裕なんかないんだ。
 俺が返事できないのを知っているのだろう。声の主である男性の足音が、やっぱり静かに近付いてくる。こんなに静かな人、ここに来てから初めてじゃないか?
「初めまして。脳神経内科の、常葉といいます」
 わざわざ身を乗り出して俺の視界に来てくれた彼は、白衣にマスク。脳神経内科、と自己紹介したから、間違いなく、医者だ。
 つい、観察する。
 染めてない、少し癖のある柔らかそうな黒髪。眼鏡、の奥の目は目尻がちょっぴり垂れていて、気弱そう。全体的に華奢というか、線が細いというか、まあ要するに、ガリ勉なのかな、という印象。
 そこまで見てから、わざとゆっくり瞬きを一つ。聞いていることを伝えるために。
 常葉先生は、目尻を更に下げた。
「今日はね、治験のお話を提案しに来ました。何回も聞いているかもしれませんけど、ここは大学病院なのでね。そういう話もたまにあります。今回の治験は、脳波の読み取り装置でパソコンを操作し、少しでもコミュニケーションが取れることで何か良い影響が現れるのか、というものです」
 そこまで言ってから、俺の目元をじっと見てくる。だから俺は、また瞬きを一つ。
「治験の話は初めてと思いますから、気になりそうなことを先に言いますと、余分なお金は掛かりません。入院費はそのままですけど、治験に関わる部分は全て大学側の負担となります」
 魅力的だな、と思った。これ以上親にお金の面倒を掛けることなく、パソコン操作の治験に参加できる。パソコンの操作ができれは、将来的には在宅勤務みたいにして自分の入院費くらいは自分で——
 思わず何度も瞬きしてしまった。
「治験ですから、想定外のことも起こりえます。途中で中止になることも。僕は変な気休めは言えないんです、そういう性分で。だから、多分都度都度、正直に説明するんじゃないかなと思います。聞きたくない場合の合図も、治験に参加されるのなら、決めましょうね。僕が担当になるでしょうから」
 この丁寧な先生が、俺の新しい担当に。それは治験の中身と同じくらい、魅力的に聞こえた。
 大学院を卒業しようかという間際に交通事故に遭って、俺は上下を見ることと瞬きすること以外、何もできなくなってしまった。だからこうして病院のベッドで、管に繋がれて、ただずっと転がされている。入院費は親が出してくれているけれど、正直すごく心苦しかったし、何より悔しかった。でも、それを誰かに言うこともできない日々。
 それが、伝えられるかもしれない。しかも、この先生が聞いてくれるかもしれない。この先生なら、きっと丁寧に聞いてくれるんだろう。初対面の時からこんなに丁寧に接してくれる、この先生なら。