静かな先生(神代望視点)
治験に参加して、主治医も常葉先生に交代になって。本当に丁寧な先生だと思う。でもそれはそれ、これはこれ。今日こそは。
『あしおと』
本日分の治験の時間。装置をつけてもらって直ぐ、一分くらい掛かって打ち出した単語を、先生が困惑した声で読んだ。
「足音……?」
もどかしい。
いや、これでも単語カードにそんな単語はないし、横に目が動かせない俺は五十音表だって使えない。進歩だ、進歩。
でもこの装置、読み取りが遅い。思考のスピードに追いつかないから、十秒くらい集中して、やっと一文字。もうちょっと、こう、単語単位で読んで欲しい。
「僕の足音、何かありました? うるさかったですか?」
違う。そうじゃない。瞬きを連続で二回。
「えっ違うんですね」
『もっと』
「もっと……ええと、もっと、足音を、出してほしい、ということでしょうか」
それ! 瞬きを一つ。
常葉先生は本当に丁寧で、かつ、ものすごく静かな先生だ。部屋に来る時の足音が、他の足音があると掻き消されてしまうレベルで。
先生はしばらく考え込んで、「ええと、善処、します?」と応えた。疑問系。いやでも、無理とは言わなかった。努力するつもりでいてくれている。
ほっとしたら、集中させすぎた頭が痛んだ。まだまだこの装置には改善点が多い。
俺が目を閉じたから、先生は俺の疲れに気付いたらしかった。
「ここまでにしましょうか」
嫌だ。慌てて瞬きを二つ。
「分かりました、じゃあ、少し休憩ですね」
瞬きを一つ。先生が頷いたのを確認して、もう一度、視界を閉ざす。
カタン、と、恐らく座るために室内の椅子を置き直した音さえも、常葉先生の仕草なら静かだ。
「……あ、そうでした、足音」
そんな独り言さえも、先生の声が聞けるから、ありがたい。柔らかくて、少しだけ掠れ気味で、ゆったりとしている。吐息の成分が多いのだろうか。
『おそい』
休憩の次に入力した装置への文句に、先生はへにょりと眉を下げた。
「ですよねえ、もう少し、調整したいですよね」
分かっている。常葉先生はあくまでも医者だから、装置そのものの調整はできない。それは別の人の担当だ。
でも、先生の方がよっぽど丁寧に聞いてくれるから、つい——
『たんご』
「単語帳を見ます?」
違うので、瞬き二つ。
「違いますか。ええと、単語、でしたよね……単語単位で入力、したい感じです?」
瞬きを一つ返した。そう、先生なら最後には分かってくれる。俺の言いたいこと。
『うれしい』
それだけ入力して、三度目を閉じた。本当のことだ。そりゃもどかしさの方がまだ強いけれど、でも、嬉しい。先生が話を聞いてくれる。
これ、装置の治験のはずが、常葉先生にカウセリングしてもらってる治験になってないか? いや、装置がないともっともどかしいから、装置の治験で合っている、と、思う。
「……神代さんは、とても頑張りますよねえ」
先生がそう呟いた声は、ナースステーションから響いているであろうモニター群のアラーム音にも掻き消されそうなほどで、多分俺に聞かせるつもりはなかった。でもその分、本当にそう思ってるんだって——
俺はそこで疲れて寝落ちしてしまったらしかった。