スタイル設定

Cookieを利用して情報を保存しています。
保存ボタンはこの設定ウィンドウの最下部です。

フォントの種類

文字の大きさ
16px
行間の広さ
2.2
テーマカラー

第九章 髪に芽吹く(詩織)

 寝付けず、吐き気に耐えていたら、床頭台で充電していたスマホが震えた。
 灯りを落とした病室に、液晶の光が小さく浮かぶ。
 相手の名前を見た瞬間、胸がひゅっと縮む。——灯香。

 受けるべきか迷った。こんな姿を知られたくない。
 でも、拒んでしまったら、もう二度と繋がらないかもしれない。
 震える指先で通話ボタンを押すと、電波越しに彼女の声が飛び込んできた。

「……詩織? 聞こえる?」

 呼吸を整えるのに必死で、すぐには言葉が返せなかった。
 やっとの思いで、かすれた声を絞り出す。
「……うん、聞こえてる」

 灯香はホッとした声音で、早口になった。
 研究所での遺伝子操作。リークされた種子。飛沫感染の拡大。政府の隠蔽。
 断片を繋ぎ合わせて描かれた因果の地図を、彼女は一気に語った。

「そして——寄生植物は、宿主にいろんな植物の形質を発現させられるはずなんだ」

 その一言で、胸の奥が跳ねた。
 夢の声が、イメージが一気に蘇る。指先から芽吹く葉。緑に変わる髪。胸に震える蕾。
 ——吐くのは、間違い。選ぶのは、おまえ。

 込み上げる吐き気が唐突に強まり、全身が震えた。喉の奥が熱を帯び、花弁がせり上がろうとする。
 でも、深く吸って、止めて、吐く。患者さんに教えてきたあの呼吸を、自分に言い聞かせる。
 ——吐くんじゃない。別の形に。そう——髪に、緑を。

 胸の奥で燻っていた熱と不快感が、不意に嘘のように引いた。吐き気が完全に引くのは、どれだけぶりだろう?

 ゆっくりと顔を横に向け、自分の髪を確認する。
 そこには、確かに。髪の一房が、元の黒とは違う色合いを帯びていた。

 初めて——花を吐かずに、別の変化を起こせた。

 胸が震えた。恐怖か、希望か分からない。
 けれど確かに、わたしの中で何かが芽吹いたのだ。
 モニターに、何か異常があったのだろう。慌てたような足音、開かれるベッド横のカーテン、点灯される室内灯。完全防備の同僚の、呆然とした声。
「……榊先生、その髪……」

 慌てて隠そうとしたけれど、もう遅かった。室内灯の下、わたしの髪は明確に緑を纏っていた。更にそこから、温かい何かを——光合成によるエネルギーを、感じる。

 同僚はしばらく言葉を失っていたが、やがて小さく呟いた。完全に、医師としての——理系の口調で。
「……こんなケース、初めて見ました。もしかしたら——花を吐きさえしなければ、隔離解除の可能性があるかもしれません」

 その声には期待と戸惑いが入り混じっていた。
 わたし自身も同じだった。希望だと思いたいのに、未知の変化に震えが止まらない。

 スマホの向こうで、灯香が声を弾ませる。
「やっぱり! 詩織、何か掴んでたんだ……!」

 胸の奥で蕾のような鼓動が高鳴った。
 吐き気と苦痛に覆われていた病室で、初めて希望が見えた。

 ——吐かずに、生きられるかもしれない。

 まだ確信には遠い。
 けれど、この小さな芽吹きが未来への扉を開けるのかもしれないと、そう思った。