振（ふ）り返（かえ）るのには、多大な気力を要した。更（さら）に言葉を捻（ひね）り出（だ）すのには、全身全霊（ぜんしんぜんれい）を掛（か）けた。
「璃音（りおん）。君は、行かないの？」
　僕（ぼく）の瑠璃色（るりいろ）の堕天使（だてんし）は、一瞬（いっしゅん）振（ふ）り返（かえ）り、入（い）れ違（ちが）いに飛び出して行く助手たちの背中を見たけれど、そのまま僕（ぼく）に向き直って首を横に振（ふ）った。
「本当に見（み）逃（のが）してくれるとも思えない」
「まさか！　僕（ぼく）じゃあるまいし。璃音（りおん）は数少ない成功作なんだから、壊（こわ）されないと思うよ。逃（に）げなよ」
　嘘（うそ）だ。本当は、ずっとずっと、最期（さいご）まで一緒（いっしょ）にいて欲（ほ）しい。けれど、もう僕（ぼく）は、散々璃音（りおん）を巻（ま）き込（こ）んだ。大事な妹の詩音（しおん）ちゃんの保護を怠（おこた）って生死不明にさせてしまったし、璃音（りおん）自身、既（すで）に人の身ではない。
　璃音（りおん）は僕（ぼく）の説得には応えず、逆に聞き返してきた。
「天音（あまね）にぃは、どうするつもりなんだ？」
「僕（ぼく）？　勿論（もちろん）、逃（に）げるに決まってるじゃないか。こんな所であっさり終了（しゅうりょう）されてやるほど、人生悟（さと）ってないよ」
　これも嘘（うそ）。璃音（りおん）さえ生き延びてくれるなら、そして、時々僕（ぼく）を思い出してくれるなら、僕（ぼく）自身の命には、実はさほど未練はない。人生を賭（か）けて求めていた友だちは、傍迷惑（はためいわく）な迷走（めいそう）の末に、奇跡的（きせきてき）に舞（ま）い降（お）りてくれた。ここで、その友だちに心中まで求める誘惑（ゆうわく）は、とても甘美（かんび）なもの。でも、だからこそ、僕（ぼく）が理性的であるうちに、璃音（りおん）には逃（に）げて欲（ほ）しかった。
　璃音（りおん）は相槌（あいづち）すらも打たず、その紅玉（こうぎょく）に埋（う）め込（こ）まれたカメラアイで、じっと僕（ぼく）を見てくる。紅玉（こうぎょく）に映る僕（ぼく）の笑顔（えがお）は、滑稽（こっけい）なまでに歪（ゆが）んでいるように見えた。
　あー、もう、無理。笑顔（えがお）で送り出してあげたかったのに、無理。このままだと、怒（おこ）るか泣くか、しちゃいそう。
「何さ。言いたいことがあるなら、はっきり言えよ」
「言いたいことがあるのは、天音（あまね）にぃの方だろう。何せ天音（あまね）にぃは、生身の人間だ。なのに、あの組織の軍から生きて逃（のが）れられるつもりでいるのか？」
「なぁに、一ヶ月（いっかげつ）もあるんだ。何か考えるよ。あ、璃音（りおん）が僕（ぼく）を連れて逃（に）げるとか、言うなよ？　いくら璃音（りおん）でも、足手まといを抱（かか）えちゃ……」
　僕（ぼく）は、それ以上言えなかった。泣きたかったのは僕（ぼく）の方なのに、璃音（りおん）の目から、大粒（おおつぶ）の涙（なみだ）がぼろぼろと伝い落ちてしまったからだ。
「うそつき。天音（あまね）にぃの、大うそつき！！」